100年以上続く老舗和菓子。中には創業1000年を超える店舗もあり、和菓子誕生の背景には、歴史上の人物も関係しています。
そこで、長い年月かわらない手法と味を代々受け継ぐ和菓子の魅力を、歴史背景と共に紐解いてみたいと思います。
一文字屋和輔は、京都府京都市北区今宮神宮の東参道に店舗があり、創業1000年のもっとも歴史のある和菓子店です。
あぶり餅は、応仁の乱や飢餓に見舞われたときに庶民にふるまわれたという由来から、現代も病気や厄除けの御利益があるとされています。
串に刺した親指大のお餅にきなこをまぶし、炭火でこんがりと焼いた後に白みそのタレを塗った餅菓子で、香ばしさと甘みが口の中でひろがります。
女性にも食べやすい一口大のあぶり餅は、奇数の方が縁起がよいとされ、1皿13本盛られています。
老舗和菓子は、男性職人のイメージがないでしょうか。
実は一文字屋和輔では、男性は外に稼ぎに出かけ女性が家を守るという家訓があり、茶屋を切り盛りするのは女将の役目とされています。今の時代とは、少しかけはなれた家訓かもしれませんね。
あぶり餅が誕生した西暦1000年は、平安時代(長保2年)藤原道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇の皇后となった年です。
この時代には、「源氏物語」の著者である紫式部や和泉式部また清少納言などの名前がでてきます。
紫式部や枕草子があぶり餅を食べていたかも、というのはあくまで想像に過ぎません。
しかし茶人として名高い千利休は、あぶり餅を茶菓子として食していたと言われています。
千利休は織田信長や豊臣秀吉にも仕えていた人物ですので、さすが創業1000年の歴史を感じますね。
五郎兵衛飴は福島県会津若松市の名物飴で、会津若松駅前に店舗があり、創業約800年の歴史があります。
もち米・麦芽・寒天で作る手法は現代も受け継がれ、素朴な味わいの飴はゼリーのようなグミのような触感が特徴で、食べ応えのある飴和菓子です。
五郎兵衛飴は、歴史上名のしれた登場人物との由縁がありました。
その一人が源義経です。
源義経は兄頼朝と共に平家との戦いに勝ちますが、後に兄から京都を追放されていまいます。
そして逃亡中に立ち寄った老舗飴屋で口にしたのが、五郎兵衛飴でした。
しかし逃亡中の身でお金を持ち合わせていなかった義経は、仕えの弁慶に借用書を書かせます。
当時書かれたとされる借用書は今も店舗で保管され、五郎兵衛飴のパッケージには勇ましい形相の弁慶の姿が描かれています。
逃亡で疲れ切った義経は、五郎兵衛飴を食べ空腹を満たしたのかもしれませんね。
そしてふたつ目は、白虎隊です。
会津戦争で会津藩によって構成された部隊で、16歳から17歳の武家男子が選ばれました。
我が子が白虎隊に出陣することになった母親が「必ず生きて戻って欲しい」と願いを込めてもたせたのは五郎兵衛飴だったと言われています。
白虎隊は、自決という壮絶な最期を遂げていますので、五郎兵衛飴の歴史には考え深いものがありますね。
岡山県倉敷市にある藤戸饅頭本舗は、今らから830年前の1184年創業です。
元は藤戸寺境内の茶店で販売したのがはじまりで、江戸時代に入り饅頭屋として店舗を構えるようになりました。
本店の建物は古く歴史情緒があふれていて、映画「ALWAWS3丁目の夕日」のロケ現場にもなっています。
倉敷藤戸地区はかつて源氏と平家の戦い「源平合戦」が起きたときの戦場でした。
そして現在の藤戸地区は「児島」と呼ばれ、現在の倉敷川は「藤戸海峡」という海域だったそうです。
平家物語では、源氏側の武将だった佐々木盛綱が極秘で平家軍に攻め入り見事勝利したと記されています。
そしてこの平家軍がいた場所が、藤戸海峡を渡った「児島」でした。そしてこの戦は「藤戸合戦」と呼ばれています。
佐々木盛綱は、藤戸海峡を渡るために地元の漁師に案内をさせています。
しかし「児島」に渡った直後、盛綱は案内役の漁師を刀で切り捨て殺してしまったのです。
児島の村民は、罪もなく殺された漁師を弔うため、藤戸寺で供養を行いました。
そしてこのとき近くの民家から供えられた饅頭が、今の藤戸饅頭だったのではと言い伝えられています。
戦に巻き込まれた村民の悲しい物語は、現在も藤戸饅頭の起源として語り継がれています。
かん袋は、大阪堺にある1329年創業の老舗和菓子店で、メニューはくるみ餅と氷くるみ餅のみ。
くるみ餅とは、白玉を青大豆の餡で包んだ和菓子です。
かん袋は、和泉屋徳左衛門が和泉屋という「お餅屋」を開いたのがはじまりです。
そしてかん袋と名前を変えた由来には、「豊臣秀吉」が関係しています。
ときはさかのぼり、安土桃山時代。
秀吉は大阪城を建築するにあたり、大阪堺の商人に対して多額の寄付を要求しました。
そして桃山御殿が完成したころ、寄付の礼にと商人を御殿に招いています。
招待を受けた和泉徳左衛門は、御殿に足を運びました。
そのとき建設途中だった天守閣では、職人たちが瓦をはるため一枚一枚瓦を積み上げていたそうです。
その姿をみた和泉屋徳左衛門は、餅作りで鍛えた腕力を活かし、瓦を次々と放り投げて屋根に積み上げていきました。
その姿をみた秀吉は、瓦が宙を舞う姿を「まるでかん袋が宙をまっているようだ」と、和泉屋徳左衛門の腕の力をたたえます。
そして秀吉から「以後かん袋と名付けよ」と命じられたことにより、和泉屋の称号はかん袋となりました。
かん袋のくるみ餅を、豊臣秀吉も口にしたのでしょうか。なんとも壮大な歴史背景ですね。
塩瀬総本家は1349年創業の和菓子店で、約660年の歴史があり、東京都中央区に本店があります。
商品のラインナップは、志ほせ饅頭のほか焼き菓子・ようかん・もなかそして季節に合わせた和菓子を取り揃えていて、製造には機械を使わず手作りにこだわっているのが特徴です。
その中でも代表的な和菓子が、志ほせ饅頭。
すりおろした大和芋に上新粉と砂糖をまぜて作られた皮に、あずき餡を包んで蒸しあげたひとくちサイズの饅頭です。
塩瀬の祖先である林浄因は、中国の肉をつめた饅頭からヒントを得、肉食を禁じられている僧侶のために皮に餡をつめて蒸しあげる饅頭を作りあげました。
それまでは饅頭のような和菓子はなかったため、寺院に集う上流階級に大好評でやがて天皇への献上品となっています。
そしてときは下り1575年、当時7代目だった林宗二は、織田・徳川連合軍が武田勝頼を撃退した戦い長條合戦に、「饅頭」を献上しています。
当時献上した「饅頭」は、あずき餡を薄皮で包んで蒸しあげたもので、家康は兜にもって軍神に供え勝利を祈願したとそうです。
このことから、別名「兜饅頭」とも呼ばれています。
志ほせ饅頭は明治初年から宮内省御用を勤めており、戦後は結婚式の引き出物にも選ばれるようになりました。
ひとくちさいずの小さな饅頭には、長い歴史が刻まれているというわけです。
老舗和菓子の魅力や特徴そして歴史的背景をお伝えしました。和菓子に、これほど多くの歴史上の人物が関係していることには驚かされます。
また老舗和菓子は、昔も今も変わらない製法で製造されているのがポイントです。
時代の流れと共に嗜好が変わっても不思議ではありません。
とはいえ老舗和菓子には、時代の流れにまどわされない魅力があるのかもしれませんね。