・ユニクロの経営者である柳井正さんについて詳しく知りたい
・ユニクロの経営エピソードや失敗事例を知りたい
・柳井正さんが考える後継者問題への見解を知りたい
上記にお応えしていきます。
ユニクロは現在では日本でも有数の大企業になりましたが、設立当初は日本の地方でも店舗展開することができなかった企業でした。
設立当初は厳しかったユニクロの事業を、様々な戦略で大きく拡大させることに成功した柳井正さんに対して、興味を持つ人も多いでしょう。
この記事では、柳井正さんとユニクロについて徹底解説していきます。
本記事を読めば、ユニクロの経営戦略や失敗事例、成功者の柳井正さんの考え方を知ることが可能です。
まずは柳井正さんについて詳しく解説していきます。
かなり波乱万丈の人生を歩んでいて、全て説明すると記事が長くなる為、特に重要な3つのターニングポイントを紹介することにしました。
柳井正さんは早稲田大学を卒業後に、ジャスコ(現イオンリテール)に入社しましたが9ヶ月で退職。そして数ヶ月後に実家の小郡商事で働き始めます。
主に紳士服を取り扱っている事業を展開していましたが、当時は洋服の青山など紳士服の業界は強い競合企業が複数あったので、差別化を図るために価格競争に持ち込みました。
この時の柳井正さんは、値段ではなく「物が良ければ売れる」という商売の価値観が確立します。
そして、紳士服業界で安価に商品を提供する企業として全国拡大を目標を達成する為に、事業を進めていきました。
1984年に父親から会社を引き継いで小郡商事の社長に就任します。
アパレル事業を進めていた小郡商事は、柳井正さんが社長になって間もないタイミングでユニクロ1号店を広島に開店。
現在は自社のオリジナルブランド商品を低価格で販売していますが、当時は他社の有名ブランドを安価で仕入れて低価格で販売する戦略で勝負を仕掛けました。
しかしながら、ブランド志向が強い顧客は、ユニクロのような低価格商品を着ることに対して恥じる思いを持っていたようです。ある程度の顧客数は確保できていましたが、ユニクロの袋を持ち歩くと印象が悪い為、商品を購入したら違う袋に入れるという事態になりました。
それだけでなく、ユニクロのブランドイメージが最悪だったタイミングで、有名ブランドの商品の中に偽物が混じっていたことが発覚。既に悪かった評判に火が付いて、店は最悪の状況に陥ります。
既存の有名ブランドを取り扱ったことで起きたトラブルを解消するべく、柳井正さんはユニクロのオリジナルブランドの制作に取り掛かりました。
オリジナルブランドを作ったことで少しずつ売上が回復して、中国地方を中心に店舗数を増やすことに成功します。
事業が低迷して倒産もあり得る状態の中で、お金を使ってオリジナルブランドを構築したのは大きなターニングポイントです。
それでは柳井正さんがユニクロで行った経営エピソードを紹介していきます。
先ほど「柳井正さんってどんな人?」で被っている内容もありますが、経営エピソードはまとめておいた方がわかりやすいので、再度ご覧下さい。
ユニクロは有名企業のブランドを販売するバッタ屋手法から脱却して、オリジナル商品を開発して会社のイメージを確立させることに尽力します。
オリジナル商品の中でも「フリース」という商品が全国的なヒットを起こして、ユニクロというブランドは一気に認知が拡大。
価格は安いが低品質で着ているのが恥ずかしいというイメージを持たれていたユニクロですが、高品質のオリジナルブランド商品によって一気に印象を変えた出来事でした。
フリースが流行って認知が拡大してからは、低価格で高品質のアパレル店として全国的に人気を広げることに成功しました。
他の企業では考えられないようなコストパフォーマンスを披露する商品に対して悪い印象を持つ人は少なくなり、店舗も中国地方から全国へ拡大していきます。
ユニクロの商品はオリジナルブランドで、低価格で高品質というイメージは現在も続いていますね。
低迷していたアパレル事業が、オリジナルブランド商品の開発によって全国展開に成功しましたが、ユニクロは話題を集める施策を止めませんでした。
様々な施策をして顧客の集客に成功しましたが、最も注目を浴びたのが世界でも評判が高い大人気デザイナーのジルサンダーとのコラボでしょう。
2009年に初めてのコラボをしたユニクロとジルサンダーの商品は、ネット掲示板でも非常に評価の高かった商品で、瞬く間に大きな売上を作りました。
大成功したコラボは2009年~2011年まで期間限定で開催されています。そして2020年の秋冬にコラボが復活しました。
日本で絶大な人気を誇る企業になったユニクロは、海外展開にも力を入れました。
多くの企業は日本と海外で同じ商品を展開するのに対して、ユニクロは地域の特性に合わせて商品販売の構成や時期を変えています。
それぞれの地域にあった商品を低価格で適切なタイミングで販売することで、海外でも大きな人気を得ることに成功しました。
2020年時点でユニクロの売上の海外比率は45%になっていて、完全にグローバル化に成功したと言えるでしょう。
先ほどは柳井正さんがユニクロで成功した経営の戦略を紹介しましたが、失敗した事例もあるので解説していきます。
有名ブランドを安価で仕入れて低価格で販売する手法をとっていた時期は、ブランドイメージは最悪でした。
バッタ屋という「正規の流通ルートで仕入れていない商品」を安価で販売する手法は悪い評判を生み、そのタイミングで偽物を販売してしまったので、顧客は一気に離れていきます。
最終的にはイメージを取り戻すことに成功しましたが、ユニクロの歴史の中では大きな失敗と言えるでしょう。
柳井正さんは25歳が人間のピークだと考えていて、それまでは厳しいマネジメントをして成長させるという育成方法を取っていました。
しかしながら厳しいマネジメントによって「暴言·暴力」や「サービス残業の常態化」が起きてしまいます。
厳しいマネジメントが原因で入社してから3年以内の離職率は45%になり、うつ病などの精神病が原因で休職する社員も増えました。
これが世間に明るみになって大バッシングを受けることになりますが、現在は労働環境を変えることに成功していて、新卒の人材からも人気就職先企業になっています。
過去のユニクロの商品は、現在と低価格であることは変わりませんが、品質は非常に悪かったです。
低価格志向を持っていた柳井正さんは、商品の品質を下げてでも価格を安くして販売する手法を取っていましたが、顧客からは良い印象を持たれませんでした。
そこから原価率が高くても、良い商品を作って低価格販売することで顧客から人気を集めて、売上を作るのに成功します。
顧客の評判を真摯に受け入れて、商品の品質を上げた柳井正さんの戦略勝ちですね。
柳井正さんは高齢なので、後継者問題の話がニュースになります。日本の大企業であるユニクロの代表が変わるということで、世間からの注目度も高いですね。
息子が会社を引き継いで経営を存続させる家族経営が一般的ですが、柳井正さんは様々なインタビューで「ユニクロの経営を息子に任せる気はない。」と答えています。
柳井正さんは同族経営に関して否定的な見解を持っていて、息子に会社を任せるのは最善の策ではないと考えているようです。
ユニクロは創業してから長い歴史を持っている大企業で、後を引き継げる能力を持った人材は存在します。その為、同族経営に否定的な見解を持っている柳井正さんは、息子達ではない人材に会社の経営を任せようと考えているようです。
実際に2018年の株主総会では、二人の息子を経営者ではなく取締役として活動させると発表されています。
これから柳井正さんの後継者問題は世界的に注目されるトピックなので、興味がある人は動向に注目しておきましょう。
最後に柳井正さんが発言した多くの名言の中から、厳選して7つ紹介します。
①変革しろ、さもなくば死だ
②一生九敗
③去年と今年を変えない限り、会社は潰れると思って欲しい
④10回新しいことを始めれば9回は失敗する
⑤失敗に学ぶことと、リカバリーのスピード。これが何より大切である
⑥ユニクロでいつばん発言力がある人、それは社長ではなくお客様
⑦人生でいちばん悔いが残るのは挑戦しなかったこと
他にも多くの名言がありましたが、ユニクロの経営に関係する名言を7つピックアップしてみました。
特に失敗に対して肯定的な意見を持っているように見受けられます。
これは失敗を繰り返しながらユニクロを拡大していった柳井正さんの過去があるからでしょう。失敗を肯定して成長させてくれるユニクロの経営方針は、従業員が自由に動ける要因にもなっています。
また、「ユニクロでいつばん発言力がある人、それは社長ではなくお客様」という発言は、柳井正さんが顧客を大切にしている証拠です。顧客の発言に耳を傾けて商品のブラッシュアップを行った柳井正さんの戦略によって、ユニクロは大きく拡大することに成功しましたね。
この記事では、ユニクロの経営者である柳井正さんの経営エピソードや生い立ち·経歴を紹介しました。
失敗を繰り返して何度も立ち上がる柳井正さんの辛抱強さが、ユニクロをここまで大きく成長させたのでしょう。
そして2021年1月14日、「ユニクロ(UNIQLO)」や「GU(ジーユー)」を展開するファーストリテイリングの時価総額が一時10兆円を超えました。
柳井さんの掲げている、「アパレル業界での世界一」という目標も実現に向けて大きく前進しているのではないでしょうか。
今年も柳井さん、そしてファーストリテイリングの動向には注目をしていきたいですね。